2010.02.23 代々木ザーザズー
悲しいかな人は、進化し、退化し、成長し、老化していく
その中で、真理や不変を称えられるわけもない
当然10年後、20年後も、同じ気持ちでいられるわけもない
20年前は、あんなにも自分のために歌われていると思っていた歌も、今となっては、”この歌にあの時は、救われていたな…”なんて懐かしがったり
逆に、その頃は軽蔑し、軽視していた歌が、ある時、スッと自分に入り込み、”これこそ今の自分のことを歌っている歌だ!!”と馴染み、急に理解できたり…
10年前、20年前に大好きだった歌や言葉を聞き返した時に、”懐かしい”とか、逆に”変わず色褪せない”といった感慨深さに包まれるものに僕は憧れる
自分も行く末は、そんな文章を書いてみたいと思う
何故なら、それらこそ、進化退化成長老化を経ても、今だ、あの頃に戻れるタイムマシーンや、初心を思い起こさせ鼓舞してくれる、心に残り続けているものだからだ
幸いにも、僕は物を書くことを生業にしている
中には、「昔こんなことを書いてましたね」「スカオさんの●●を読んで▲▲を買って、当時の自分の糧になっている」という方にも、たまにだがお会いすることもある
別にその人のためや、その人を意識して書いたわけでもないのに、そんな言葉をかけられると、”ああ、やっていて良かった!!”と冥利に尽きる
そんな、無意識だけど、多くの人に刺さり、響く文章を書き続けられたらと思う
僕は文章を書く時には、たった1人のために一生懸命書くことにしている
それをここでは「その人」と称させてもらう
その人は、残念ながら、日頃身近にいて顔を合わせたり、その文章に対して注文をしてくるクライアントではない
もっともっと、身近にいる
自分自身
いや、正確には、誰か対象の人を思い浮かべ、その人に向けて書きつつも、
届けたいのは、その対象の人のまだ先に佇んでいる自分とでも言うか
言いかえると
自分の内側に向けて書くのではなく
キチンと外に向けて書きつつも、その先には、もう一人の自分が居て、その自分に向けて書いていると言うか…
厳密に言うと
自分であるんだけど、自分じゃない人
もしくは
自分じゃないんだけど、自分のような人
に向けて
その人の喜ぶ顔や、嬉しそうな顔、感動している顔、”そうだよ!待っていたのは、コレだよ!コレ!!コレ!!”的な顔が出てくるのを思い浮かべながら、
“その人に届け!!”とばかり、渾身を込めて書いている
実際に、「その人まで届いているのか?」の効果測定など出来ないが、
読み返した時に、自分が、「これは良い文章だ」
と、思える時、
もしくは、時たまにしかないのであるが、
「自分の文章に感動する」
そんな時は、”その人まで届けることが出来た”と勝手に思っている
そんな文章だけを書き続けたいと、今もリライト、リライトを繰り返し
その人の満足気な表情が現れるのを待っている
残念ながら昨年お亡くなりになった、今だGODやボスと呼ばれているロッカーに、かつて取材する機会があった
その際、彼に「僕の人生の支えとしてかつて、アナタのこの歌があった」との思いの丈を打ち明けた
その話を最後まで聞いてくれた彼はボソッと
「君は、がっかりするかもしれないけど、この歌は当時の自分のためにだけに作った歌なんだよ」
と申し訳けなさそうに言った
それを聞き、僕はガッカリするどころか、何か見えた気がして、
逆に嬉しくなり、その結末を聞けて、”だからか!!”と納得をした
もの書く、届けるというのは、やはり一対一だ
その人に届いて欲しい
その人に伝わって欲しい
その願いを込めてものを作るのだ
その結果が、何千、何万に繋がっていく
それすら届かないものを、その向こうの何千、何万に届き、響くわけがない
そこから僕の文章を書く意識は変わっていった
もちろん、その向こう側には、何千、何万の人に憧れながらも
書きながら思い浮かべるのは、想定した、その人の喜んだり、感心したり、感動したりする顔
その向こうに、同じ気持ちで接してくれる何千、何万があったら嬉しい
たった1人も感動させられなくて、多くの人を感動させられるなんてとても無理な話だ
だけど、その人の満足そうな顔が現れるのが、また一苦労なんだ、これが
しかし、その顔が見れたその際には、
なんか言いようのない、桃源郷のような素晴らしい世界を見れた気なる
僕はこれからも、その人の満足そうな顔を目指し、書き続ける
今晩、あるバンドのライヴを観、その後、そこのボーカルと話し込んだ際に
問われ、上手く伝えられなかったことが上述だ
彼が、これを見ているのか? 見るのか?は知らない
だけど、僕はそいつに向けて、この文章を書いた
彼がこのことに気づいてくれると僕は嬉しい