手離して、取り戻して
昔、かなり夢中になり、ライヴにも足しげく通ったバンドのCDをようやく手に入れた。
しかも、法外なプレミア付き。
探してもらった手数料とは言え、高利をむさぼる輩に、むざむざ提示額を払うのも悔しかったので、最終的にはトレードに持ち込んだ。
そうだ。
ここまでは前回書いたんだったけ。
無償だけど、代償はあった。
幾つかのノスタルジックを手離して、違ったノスタルジックを取り戻した。
きっと、ふとした時にまた、手放した方への後悔がやってくるのだろう。
もう要らないと整理したはずなのに、
想い出や想い入れってやつは、時と場所を選ばず、スッと頭の中に現れては、もう既に手を離れてしまっていたものを慈しまさせる。
手に入りにくくなればなるほど、手に届かなくなればなるほど、
それは時に当時の100倍以上の愛しさと、何だかとんでもない大切な想い出までも手放してしまったかのような過失感と共に襲ってくる。
ずっと手元にある時には、そんなにノスタルジックに浸ったり、慈しんだりしなかったのに身勝手だ。
形としてはあったはずなのに、形のないかけがえのないものの方を強く思い出す。
手放してしまった有形物と共に一緒にくっついて去ってしまった想い出だけは、犬小屋のなくなった飼い主の下に戻ってきた遠くに捨てに行った飼い犬のように、ある日、ある時、急に戻ってくる。
手放してしまった代償とばかりに、その時以上の付加価値がついて戻ってくる。
ゴメン、もうここには、君を受け入れるスペースはないんだよ。
と諭してみても無駄なこと。
だから、
手放した想い出をかき集めるように
人は
貯め込んだり
買い戻したり
リバイバルしたものに飛びついたり
類似なものを手に入れ、それでごまかしたり…。
してしまうのだろう。
話はちょっと変わるが、
僕は久々に聴き返し、懐かしい気持ちに陥った時、光景や出来事のフラッシュバックはもとより、ほんの一瞬ではあるが同時に当時の香りもフッと思い出す。
いや、正確には、光景や出来事のフラッシュバックに匂いや香りがついてくるというか。
先の買ったばかりのCDを、我慢できずに会社に戻る途中の電車で、立っていたにも関わらず、空けてポータブルCDプレーヤーに入れて聴いた際もそうだった。
ちょっと湿って、ひんやりとした、あまり人の入っていない企画の際のライヴハウスの匂い。
ちょっと下水臭く、タバコのにおいの染み込んだ、独特の湿り気を帯びた、多少の緊張感漂うあの空気感。
今のライヴハウスでは全くしなくなった匂いや雰囲気を、歌を通じ、呼び起こされた。
詩人バイロンなら「想いおこす」とでも称するところか。
話を聴き返した感想に戻ろう。
この25年近くで、僕の頭の中で独り歩きした曲たちは、
もちろん
“そうそう、これ!、これ!!”って曲が中心ながら、
当然全部が当時のそのままではなく、
“あれ、この曲ってこんなに遅かったっけ?”
“この曲ってこんなに速かったんだ…”
“こんなことが歌われていたんだ…”
“あの時は、こうとっていたけど、実はこういう意味だったのか…”
等々
自分の中で育ち、根を張っている曲たちとの多少のすり合わせを要した。
しかーし、
特に当時持って愛聴していたEPたちの曲に至っては、
やはり、
あの頃、あの時の自分にビューンとワープ。カラス目線でしっかり当時の自分を見て
きた感に包まれたのでした。
やばっ。
今回は、「手に入れた盤のバンドについてと、何故今回こんなに固執したか、そして
当時のこのバンドにまつわる甘酸っぱい思い出」
のはずだったが気づけばこんなになっていた。
というわけで、その辺りは今度こそ次回に。